中学入試の歴史で鎌倉時代はよく出題されます。
鎌倉時代の重要な人物の1人に「後鳥羽上皇」がいます。
では、後鳥羽上皇と聞いて、どんなことをした人かすぐ答えられますか?
歴史のテストで後鳥羽上皇の写真を見たとき、何時代の人でどんなことをした人かぱっと分からないと問題を解くことが出来ません。
重要人物を登場順に覚えておき、関連する人物や出来事を覚えておくことが大切です。
その上で重要な年号を覚えておくと社会のテストで得点を取ることが出来るようになります。
今回は超重要人物の後鳥羽上皇について見ていきましょう。
後鳥羽上皇について
では、タイトルにある後鳥羽上皇について、どれくらい知っていましたか?
時代:平安時代〜鎌倉時代(歴史の学習では鎌倉時代で良いでしょう)
後鳥羽上皇の生まれは1180年です。
1180年は源義朝が伊豆で兵をあげた年です。
後鳥羽上皇というと、承久の乱を起こしたことが有名です。
では、承久の乱とはどのようなものだったか覚えていますか?
その前に、実は中学入試のために鎌倉時代を勉強する時に重要となってくる人物を確認しておきましょう。
- 源義朝
- 北条政子
- 北条泰時
- 北条時宗
上記4人を覚えることで、鎌倉時代の重要な流れをおさえることが出来ます。
この中に「後鳥羽上皇」が入っていないことに気がつきましたか?
承久の乱で有名な後鳥羽上皇ですが、北条政子と関連付けて覚えると流れをつかみやすくなります。
それでは承久の乱について確認してみましょう。
承久の乱(1221年)
源氏が3代で滅びると、後鳥羽上皇は朝廷に政治の力を取り戻すため、鎌倉幕府の2代執権であった北条義時を討つ命令を出しました。
ここで、源義朝の妻であった北条政子が演説をし、勇気づけられた御家人は上皇軍を破りました。
この戦いを「承久の乱」といいます。
鎌倉時代を確認
1159年の平治の乱の後、平清盛に敗れた源義朝の子、源頼朝は伊豆に流されていました。
源頼朝は北条氏と協力して平氏打倒のために兵をあげますが、最初は敗れます。
関東地方で兵をまとめ、再び平氏打倒のため兵をあげます。
この時、源頼朝の弟である源義経が加わり、一の谷の合戦(1184年)、屋島の合戦(1185年)、壇ノ浦の合戦(1185年)と源平の合戦が続き、平氏を滅ぼします。
主な源平の合戦
- 富士川の合戦(静岡県
- 一の谷の合戦(兵庫県)
- 屋島の合戦(香川県)
- 壇ノ浦の合戦(山口県)
平氏を滅ぼした後、源頼朝と源義経の関係が悪くなります。
源頼朝は源義経を捕らえるため、国ごとに守護、荘園や公領ごとに地頭を置きました。
これにより源氏の支配力が強まり、鎌倉時代が事実上成立したと考えられています。
源義経は平泉(岩手県)の奥州藤原氏をたよって逃げますが、裏切りにあって自害します。
源頼朝は奥州藤原氏も滅ぼし、1192年に征夷大将軍に任じられました。
鎌倉に幕府が作られた理由
鎌倉は三方を山、一方を海に囲まれた守りやすい地形だったため
鎌倉幕府は、将軍を中心とし、将軍を助ける執権、政所・問注所・侍所が中央に、六波羅探題(京都)、守護・地頭が地方に置かれました。
将軍の家来は御家人と呼ばれ、御恩と奉公の関係で結ばれていました。
御恩・・・御家人は将軍から土地を与えられる
奉公・・・戦いがあると命がけで戦う
執権政治
承久の乱の後、幕府の政治は執権の北条氏によって行われました。
そのため、執権政治と呼ばれます。
3代執権の北条泰時は、武士として初めての法律(御成敗式目)を定めました。
御成敗式目は、おもに土地をめぐる裁判の判断について示されていました。
8代執権の北条時宗の時代に、元(現在の中国)が日本に攻めてきます。
この出来事を元寇と呼び、文永の役(1274年)と弘安の役(1281年)の2度ありました。
どちらも日本の勝利となりましたが、満足な恩賞(土地を与える)ことが出来ず、借金に苦しむ御家人は幕府に不満を持ちました。
そこで、幕府は1297年に永仁の徳政令を出し、御家人の借金を帳消しにしました。
しかし、すぐに廃止されたため御家人の不満が再び高まりました。
まとめ
中学受験の知識は細かいことを覚える必要があります。
今回の後鳥羽上皇の場合、まずは鎌倉時代の中心人物を覚え、そこから関連付けて覚えるべきだと考えます。
中学入試の歴史の学習で出てくる人物を全員ばらばらに覚えるのは大変です。
そのためにも関連性を持って暗記していくことが大切です。
出来れば歴史に興味を持つと、覚えることが苦ではなくなってきます。
まずはお子様が歴史に興味を持てるよう準備をしてあげると効果的に学習に取り組むことが出来るでしょう。
最近はお子様が興味を持てるであろうテキストがたくさん販売されています。
一緒に歴史のテキストを探してみることをおすすめいたします。